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泉州むかし話

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谷川(岬町)の話 (その二)秀吉肉付きの像

 一体、豊臣秀吉とは、どんな人物であったのか。戦火で消失した石山本願寺の跡地に大坂城を築城し、大阪発展の基になったとして、大阪人には親しい名前である。また、戦国武将のほとんどが由緒(ゆいしょ)正しい家柄の出であるのに対し、唯一名もない百姓(ひゃくしょう)の出から出世をして天下を取ったとして、多くが名もない家の出である一般庶民としては、やはり親しく感じる名前である。よって、大阪の年配の人からは、“太閤(たいこう)はん”として、親しまれている名前である。
 立身出世の理想的な人物として名前が残るだけなら、問題はなかったのだが、秀吉には、天下を取るまでに上り詰めた果てに、晩節を汚(けが)す行動があった。それが、文禄の役(ぶんろくのえき)(千五百九十二年)・慶長の役(けいちょうのえき)(千五百九十七年)で、分かりやすく言うと、朝鮮侵略である。
 目的は、朝鮮そのものではなく、その先の明(みん)(現在の中国)の征服であった。
 なぜ、そんな大それた野望を抱いてしまったのか。
 一説には、戦国大名に報償として与える土地がなくなってしまったから、というのがある。
 秀吉は、戦いの最中に六十一歳で亡くなるのだが、年齢的にも落ち着きたい頃で、そんな野望を抱くに至ったのは、戦国大名からの下からの突き上げがあったのではないか、という説もある。
 また、明の征服は、もともとは織田信長の抱いていた構想で、秀吉はその路線を進んだに過ぎない、という説もある。
 また、無敵艦隊スペインの植民地政策の標的に明がなっていて、スペインに征服されるより前に、という思いがあった、という説もある。
それに近い話であるが、宣教師たちに、スペインと共同で明を征服しないか、と持ちかけられていたという説もある。
 この宣教師については、 単にキリスト教を広める役割だけでなく、植民地政策と深く関わっていた疑いが濃い。
 実際に、千五百九十六年、土佐(現在の高知県)の浦戸付近に座礁したスペイン商船のデ・ランダ船長は、五奉行の一人増田長盛(ましたながもり)の領土拡大についての問いかけに、「その手段は、まず宣教師を入り込ませ、キリスト教を広めて洗脳し、その後軍隊を送り、信徒と相呼応して、その国を征服するのだ」と答えている。
 日本に初めてキリスト教を伝えたという、あのフランシスコ・ザビエルですら、コショウをある数量以上送ってきてはいけない。品薄のほうが、値段が高くなり、いっそう儲(もう)かるから、といった商人紛(まが)いの手紙を送っていて、純粋にキリスト教を広めたい宗教家がこのような手紙を書くだろうか、と首を傾(かし)げたくなる。
 ただ、ザビエルは、貧乏な武士が富豪と同じほどの尊敬を受けていることを好意的に語っている。だから、金儲け第一主義というわけでもないようである。
 この朝鮮侵略の少し前、千五百八十七年に秀吉は、イエズス会日本支部準管区長コエリョに五箇条からなる詰問状を突きつけている。
 一、大名をキリスト教信者にしようとしていること。
 二、日本人を奴隷として海外へ売っていること。
 三、寺院の焼き討ちや破壊を奨励していること。
 四、僧侶を迫害していること。
 五、牛食を広めていること。
 三、四、も、いくら唯一神キリストを信じる宗教だとしても、他の宗教への敵対的な態度は責められるところではあるが、さらに問題なのは二、である。秀吉や徳川によるキリシタン弾圧の悲劇はよく知られたことでも、日本人が奴隷として海外へ売られていたという悲劇は、あまり知られていないが、事実なのである。
 時代劇で、村娘が借金のために遊郭に売られるという悲劇が、時に扱われるが、彼女らは借金を返しさえすれば、自由の身になることも可能なのである。
 一方、海外へ売られるということは、奴隷という身分になることであり、一生、自由の身になることはなく、彼らは言葉の不自由な異国の地で、望郷の念に苛(さいな)まれつつ、むなしく死んでいったのである。
 秀吉は、「全部の奴隷を日本に戻せ。それが無理なら、せめて、日本の港にいる船に乗せられている者だけでも解放しろ。金が必要なら用意するから」とまで言っている。
 それに対するコエリョの反応は、反省の意を表すどころか、秀吉の神経を逆(さか)なでするものだった。 
 当時、九州制圧のため博多にいた秀吉の前に、スペインの軍艦に乗り、提督(ていとく)姿で現れたのである。それは、威嚇(いかく)以外の何物でもなかった。威嚇どころか、キリシタン大名に、スペイン軍が応援するから、一緒に秀吉を倒さないか、と持ちかけてさえいる。
 この年が千五百八十七年なのは、なかなか意味深なものがある。というのは、スペイン無敵艦隊が翌年のアルマダの海戦でイギリスに手酷(ひど)く敗れ、二万人以上の死者を出し、スペインの国自体が深く傷つくことになるのである。これ以後スペインは没落していくのであるが、もしも、アルマダの海戦の勝者がスペインなら、勢いに乗って、極東の豊かな島国を植民地化するために、何十隻(せき)もの軍艦が日本を目指していたかもしれない。
 宣教師に危険なものを感じた秀吉は、二十日以内に日本から立ち去れ、というバテレン(宣教師)追放令をこの年に出している。この追放令の十条では、日本人奴隷の売買禁止が述べられている。

 さて、戦国時代にはお伽衆(とぎしゅう)というのがいて、有力武将は大体二十人前後かかえていたらしい。
 秀吉に仕(つか)えた曽呂利新左エ門が有名で、機智(ウイット)に富んだ会話や歌を得意としていた。
 千五百八十五年、四国の長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)を攻める時に、秀吉は堺から出港する予定であったが、戦いは優勢で、どうやら秀吉自身が出向くまでもないらしい。それで、秀吉は堺にずっといたのだが、たまらないのが、その世話をしていた堺の豪商たちである。何千という兵の食事の世話をしなければならないのである。
 その頃、こんな狂歌を書いた立て札が現れた。

 筑前(ちくぜん)(羽柴筑前守秀吉)が 四石(しこく)の米を 買いかねて 今日も五斗(ごと)買い 明日も五斗買い

 石も斗も、米の容積(重さではない)を計る単位で、ちなみに、現代風に直すと、一斗が約十五キロで、一石は約百五十キロである。
 四石は四国と、五斗買いは御渡海とかけられている。
 つまり、秀吉がなかなか海を渡らないので、豪商たちが毎日毎日大量の米を買わなければならない、という風刺(ふうし)である。
 当然、からかわれて怒った秀吉は、犯人探しを命じた。
 権力を怖れず、しかも、気の利(き)いた狂歌を書ける人物は、自由都市堺といえどもそうはいない。
 まもなく、秀吉の前に連れて来られたのが、曽呂利新左エ門である。
 頃は戦国時代、生々(なまなま)しく言えば、人殺しに明け暮れていた時代である。曽呂利新左エ門を「無礼者(ぶれいもの)」と切り捨てても、ほめられる事はないにしろ、権力者に逆らえばこうなる、という宣伝効果にはなったかもしれない。しかし、秀吉は曽呂利新左エ門をなぜか気に入って、もともとは刀の鞘師(さやし)であった彼をお伽衆に召し抱えたのである。
 曽呂利新左エ門の何となく軽いイメージから、お伽衆は、お笑い芸人の前身的な扱いをされているが、もともとは説聞(とぎきき)の略で、話し相手をすることが本来の意味である。何故、戦国時代にはやり、江戸時代には不要の存在となってしまったのか。
 命のやり取りをする戦国時代には、明日の自分が見えない。武将たちそれぞれが、戦いに勝ちたいし、勝てると思っているが、現実には負けるかもしれない。明日の自分は戦いに敗(やぶ)れて、首を切り取られ、敵方の兵たちになぶられているかもしれない。そんなことを想像すると、神経が昂(たか)ぶって眠れない夜などに、お伽衆は話し相手をして、神経を鎮(しず)め、また、過去の戦いの話から明日の戦いの作戦のヒントを得たりもしたのだろう。
 だから、お伽衆としては、曽呂利新左エ門はむしろ異質な存在で、鳥取城主の山名豊国や織田信長の次男で、清洲城主の織田信雄(のぶかつ)などの戦国武将の名前がずらりと並ぶのである。
 そして、和泉谷川の領主、桑山重晴もまたお伽衆の一人だったのである。
 桑山重晴には武将としてのプライドがあり、鞘職人と、お伽衆として同列にいるのは不満だった。それどころか、秀吉は曽呂利新左エ門の方を可愛がっている節が見られる。
「曽呂利殿は、どんな風に関白(かんぱく)様に取り入っておられるのかな。秘訣があれば、教えてもらいたいものじゃ」
 顔は笑っていても、皮肉たっぷりの言い方である。
 一方、曽呂利新左エ門も、堺での立て札の時に、「武士が命がけで戦っている時に、からかうような立て札を出しおって。そんなやつは殺してしまえ」と、誰よりも怒りをあらわにしていたのが、桑山重晴であることを聞き知っていた。
「そんな秘訣なんどは、ございまへん。ただ、率直に、思ったことを口に出しているだけでおます。それより、桑山様」
「なんじゃ」
「関白様は、いずれ天下統一をなされます。すると、腰の刀も無用になるかもしれまへん」
「何が言いたいのじゃ」
 桑山重晴は、気色(けしき)ばんだ。
 曽呂利新左エ門は、皮肉には皮肉で応(こた)えたに過ぎなかったのだが、桑山の眼は怒りの炎が燃えている。
「腰の刀が無用の長物(ちょうぶつ)かどうか、今、この場で試してみるか」
「いえ、それには及びまへん」
 曽呂利の苗字(みょうじ)は、刀がひっかかることなく鞘からソロリと抜けるほどの、刀のそれぞれの形に合わせた鞘を作れることから生まれた愛称のようなものであった。鞘はうまく作れるが、刀を振り回すのはうまくなかった。曽呂利は逃げ出すほかなかったが、それほど二人の関係は水と油のようなものであった。

 さて、話は戻って、朝鮮侵略である。
 当時、日本軍の前線基地は肥前(ひぜん)、現在の佐賀県の名護屋城にあった。海を挟んで、ちょうど朝鮮と向かい合う位置にある城である。秀吉がそこへ向かう途中、紀淡海峡で暴風雨に襲われ、一時、谷川港に避難した。当時の理智院の住職、桂忍上人(しょうにん)が、弘法大師空海の作といわれる本尊(ほんぞん)の追風(おいて)不動明王に祈願したところ、嘘のように暴風雨が収まったという。
  秀吉は後に自身の木像を彫(ほ)らせ、それに自身の髭(ひげ)を植えつけたものを理智院に奉納した。これが秀吉肉付きの像である。それを安置する厨子(ずし)の扉の左右には、領主の桑山重晴と住職の桂忍上人がそれぞれ描かれている。これは寺宝として、いまも理智院に大切に安置されているのだが、不思議なことに、曽呂利新左エ門作とされる一対(いっつい)の木彫りの狛犬(こまいぬ)も奉納されている。
 寺はいくらもあるのに、なぜ、犬猿の仲の桑山重晴の領地にある理智院に曽呂利は奉納したのだろうか。
 謎(なぞ)である。
 名護屋城近くの寺には、秀吉の命令により曽呂利が造ったとされる庭園が残っているので、あるいは、秀吉の命令によるもので、曽呂利は嫌々奉納したのかもしれない。
 一方で、全然別の見方もある。
 曽呂利新左エ門がお伽衆として召し抱えられたのが千五百八十五年、文禄の役が千五百九十二年である。つまり、その間には七年もの歳月がある。たとえば、中高一貫校で、中学の入学式でケンカをして反目しあっていた二人が、高校の卒業式では仲のいい友人として、肩を抱き合ってカメラの前に立っても不思議ではない。
 七年の歳月は、死んでも一緒にいたい恋人同士を二度と会いたくない関係にすることも可能だし、その逆も可能である。
 そして、武骨(ぶこつ)な戦国武将と弁の立つ鞘職人という水と油のような二人の間にも、共通項はあった。
 『茶道』である。
 千利休の高弟であった桑山重晴と、千利休に影響を与えた武野紹鴎(じょうおう)の弟子とされる曽呂利新左エ門が茶道を通じて、互いを認め合う機会が七年の間にはあったかもしれない。
 だとすれば、理智院に曽呂利新左エ門作の狛犬があったとしても、不思議ではない。

 後日談。
 桑山重晴は、もともと、秀吉の弟の羽柴秀長の家来であった。秀吉の命令により、羽柴秀長が和歌山城を築城したが、自身は大和郡山にいたため、和歌山城の管理運営を桑山重晴に託しており、そのため、和歌山城初代城主は桑山重晴ということになっている。それほど信頼が厚かったわけで、他の武将よりも豊臣家とつながりが深く、豊臣家と運命を共にするべき立場にあったのだが、千五百九十六年に重晴が出家した後、その子や孫たちは、千六百年の関が原の戦いでは徳川方についている。
 桑山家を残すための苦渋の選択だったのだろうが、よく戦って、外様(とざま)大名として生き残るも、大名取りつぶし政策の結果、江戸初期には早くも、大名としての桑山家は消えうせている。
 曽呂利新左エ門がいつ死んだか判然としないが、次のような辞世の句を残している。

   ご威光で 三千世界 手に入らば 極楽浄土 我(われ)に賜(たまわ)れ

 関白様のお力で、明どころか、全宇宙が手に入ったならば、極楽浄土を私にください、という、死の直前の深刻さのまるでない、曽呂利らしいカラッとした辞世の句だが、死の直前に秀吉にねだる、ということは、秀吉よりも先に亡くなっていることになる。秀吉の死が千五百九十八年だから、それよりも前というと、桑山重晴の出家の時期と重なる可能性がある。
 幾多の戦場を駆け抜け、幾多の戦死者を見てきて、それが日常であった戦国武将桑山重晴が、たった一人のかっての喧嘩相手の死に人生のむなしさを感じて、出家を決意する、というのもありうる話かもしれない。

〘メモ〙秀吉肉付きの像や曽呂利新左エ門作の狛犬がある真言宗理智院への道順。
 南海多奈川線終点『多奈川駅』より西方へ約二キロ。

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