谷川(現泉南郡岬町)はおおむね海辺の村である。しかし、その地名が示すように、海辺からさほど離れていない場所に山肌が迫っている。つまり、平坦な土地の少ない地形なのである。
その海辺から山地に至る境目あたりに、大きな楠(くすのき)が生い茂っていた。樹齢数百年と思われるほどの大きさで、天に至るほど高く、樹の周りも大人が何人も手を広げてようやく一周できるほどであった。
ただし、人が老いれば、病(やま)いと無縁ではいられなくなるように、その樹もまた、樹齢数百年の誇りと引き換えに、その根元に無惨な空洞を晒(さら)すことになった。その空洞は、見た目に痛々しかったが、巨木全体としては誇りを失わなかったし、他の樹木だけではなく、人間の心をも圧する威厳に満ちていた。
その樹は、“人間よ、私を哀れむな。この空洞こそが長年の風雪に耐えてきた証(あか)しなのだ”と、無言で語りかけているようだった。
その巨木の枝葉が幾重(いくえ)にも太陽の光を遮(さえぎ)るので、昼なお暗く、さらに空洞の中は闇夜よりも暗い。
村人たちはもともと、その巨木の近くを通った時に、空洞から化け物が現れて、襲われたりしないかという漠然(は゛くぜん)とした不安や恐れを抱いていた。
さらに、村の子供が行方不明になって戻らなかった時に、ひょっとしてという疑いから、村人たちは示し合わせたように楠の巨木を避けるようになっていた。
さて、いつの頃からか、相当年配の見るからにくたびれ果てた身なりの入道(本来は、字のとおりに仏道に入った人のことを言うが、転じて坊主頭の怪物を指す場合もある)が、谷川の村の家々を、毎日のように物乞(ものご)いに訪れるようになった。
最初のうちは、汚らしいコジキ坊主と嫌われていたのだが、その存在に慣れてくると、別に悪いことをするわけでもないので、段々と村人たちから受け入れられるようになってきた。
「お坊さんよ、おまはん、ちょいちょいこの辺(あた)りを回ってるけど、一体どこから来るんよ」と、興味深げに聞いてくる人や、
「貧乏な村やさけ、十分なもらい物もあらへんやろ」と、心配してくれる人もある。
「もしや盗っ人(ぬすっと)してんのやあろまいな。そんな事さらしたら、ただでおかんさかいな。わかってるやろな、坊主」と、泉州弁特有の荒っぽい口調で言う人もいるが、目は笑っていて、本人は挨拶代わりのつもりなのである。
「いえいえ滅相(めっそう)もない。盗っ人なんどする度胸はございまへん。わしは、あの大きな楠の洞穴(ほらあな)に住まわせてもらっている者でおます。断りもせんとからに、勝手なことをしてすんまへん。出て行けと言わはるのなら、いつでも出て行きますさかい……。皆さん方のお蔭で何とか生き延びている身ですから……。ほんにありがとうさんなことで」と、入道は言うのであった。
「ほうか。あんた、あの洞穴に住んでるんかいな。いや、別に立ち退くこともなかろけど、……あそこには、化け物が棲(す)んでいるんちゃうかいうて、村の人間は近づかんようにしてるんやけどな」
と、気味悪そうに言う人もいる。
「化け物はいまへんけど、コウモリはいますわな」
「気色(きしょく)悪ないんか」
「まあ、コウモリは上のほう、わしは下のほうで住み分けして、なんとかケンカもせずに暮らしてまっさ。大体、後から入り込んだのは、わしのほうでっさかい、上からフンが落ちてこようと、文句は言えまへん」
と、言ってから、入道は思い出したように言葉を続けた。
「そうそう、あそこに住まわせてもらうようになってから、わし、樟(くすのき)入道て名乗ってまんのや」
「ええ名前やな。ほんで、樟入道はん、あんた、もともとどこの生まれやねん」
と、この入道に興味を抱いたのか、身元まで知りたがる人も現れた。
初めのうち、樟入道は自分の過去を頑(がん)として語ろうとしなかった。
隠されると、いっそう知りたくなるのは人間の常で、いろいろな人間が樟入道の過去を聞きだそうと試みたが、成功したものはいなかった。
しかし、そのうち、ああまで過去を隠そうとするのは,何か疚(やま)しいことがあるからではないか。盗みどころか、人を殺した末に、坊主姿に身を変えて逃げているのではないか、といった根も葉もない風評が流れるようになった。
“わしが、人殺しか”
樟入道は心のうちで深いため息をついた。
“哀しみの深さのせいで、過去を語りたがらない人間もいるだろうに……”
彼は、谷川村を離れて、西か東か見知らぬ土地をとぼとぼ歩く自分を想像してみた。時に、悪ガキに石を投げられたりもするだろうが、それでも悪くない気がした。
川に落ちた木の葉のように流れていくのが、自分の人生だという気がする。
ただ、自分の名前につけたほど、この楠の樹には愛着があった。空洞の中に座って、瞑想(めいそう)すると、“お前は、生きていていい”という天の声が聞こえる。
それは、癒(いや)しであった。
いつの頃からか、自分の年齢を数えることを忘れてしまったが、多分、六十五歳かそのあたりだろう。正確な年齢ははっきりしないが、これからの人生よりも、過ぎてきた人生のほうが長いことははっきりしている。
それほど長く生きてきて、いまだに“何のために生まれたのか”“何のために生きているのか”悟りを開けない、愚かな自分に“生きていていい”という天の声は癒しであった。
その声が,楠の樹を離れても聞こえるのか、樟入道には自信がなかった。
迷ったあげく、彼は自分の過去を話し、村人たちの誤解を解く道を選んだ。
樟入道が生まれたのは、河内(かわち)の国であった。
幼名は『力丸』と呼ばれていて、家は陶器などを手広く商売していたらしいが、彼にはおぼろげな記憶しか残っていない。
それは、平安時代初期の延暦(えんりゃく)年間の末期(八百年頃)であった。大きな戦争もなく、比較的穏(おだ)やかな時代であった。
しかし、病気で苦しむ人は、いつの世も変わりがなく、力丸の両親も病魔にとりつかれてしまった。その病名は、労咳(ろうがい)で、現代で言う肺結核である。平安時代のみならず、江戸時代の新撰組の沖田総司や明治時代の歌人の石川啄木(たくぼく)など多くの人の命を奪った、不治の病(ふちのやまい)と怖れられていた病気である。
力丸の両親も病魔から逃(のが)れる術(すべ)はなく、ようやく物心がつきかけた最愛の一人息子を不憫(ふびん)に思いつつ、相次いであの世に旅立っていった。
死を予期していた両親は、もちろん、使用人たちに力丸を頼むと何度となく頭を下げていたのだが、使用人たちは約束を守らなかった。
力丸を虐待しただけでなく、商売よりも店の実権争いに夢中になり、足を引っ張り合ったあげく、店をつぶしてしまった。
店があれば、たとえ、使用人たちの食べ残しのようなものでも食べることができたのだが、店がなくなってしまえば、それさえも当てにできない。
その上に、居場所もなくなり、幼い力丸は訳の分からぬまま路上に放り出され、たった一人で寝食の心配をしなければならなくなった。
泣いても喚(わめ)いても、誰も助けてくれない。そのうち、栄養失調で泣き喚く気力や体力も失い、やがて、餓死に至る。これが、社会福祉制度の発達していない時代の多くの孤児が辿(たど)る経路であったが、どういうわけか、力丸の場合、死の手前でいつも助けてくれる人が現れた。
何度となくあった死の危険から力丸を救うために、その役割を果たすために、天から送られてきたのではないか……。そんな推測さえしてしまうほど、自分の生活さえままならない、見ず知らずの貧しい人たちが命の瀬戸際でその都度(つど)現れ救ってくれた。
何人もの孤児たちの死を、現実に見てきただけに、なぜ自分だけが救われるのか、という思いは幼い力丸の心にも漠然とあった。
十二、三歳になると、少しは物を思うようになり、“自分だけが生きていていいのか”“生きて、何をすればいいのか”と、夜空の星に語りかけることもあった。
眠れぬ夜に、十年も生きずに死んでいった孤児の仲間たちを思い出すことがある。拾い食いや盗み食いをして、時に、棒を持った大人たちに追い掛け回され、捕(つか)まった時にはイヤというほど殴られる。毎日ひもじくて、空腹を食べ物で満たすことしか頭になくて、何とか命を明日につないでいければ、そのうち幸せな明日が来るかもしれない。そんな夢想だけが唯一の楽しみで、けれど、夢想は夢想のまま終わってしまった彼らの人生……。
彼ら一人ひとりの顔を思い出すと、人生はくだらない無意味なものに思えてくる。ただ、苦痛を甘受(かんじゅ)するために生まれてきたとしか思えない。
そして、自分は……、“何のため生まれ、何のため生きているのか”“何のため彼らのような早すぎる死を免(まぬが)れ、生きのびているのか”“生きのびて、何かをするためなのか”
夜空の星に問いかけても、星は瞬(またた)きを返すだけで、何も答えてはくれない。しかし、その時、仏道は彼のすぐ身近にあり、門は開かれていて、中に入ることも可能だった。
けれど、親の血を受け継いだということか、少年が進んだのは商売の道だった。下働きの小僧から出発して、徐々に親譲りの商才を発揮し、店主にも信頼されるようになり、いずれは親のように自分の店を持つことも可能だった。可能のはずだった……。
これが運命なのか、二十歳になる少し前、少年は病を患った。その病名は、何であろう、親と同じ労咳であった。その事を知ると、店主は非情にも少年を即座にクビにし、罪人かのように店から追い払った。
不治の病と怖れられていた昔であり、さらに、医者に診(み)てもらう金もない。
二十歳足らずで、死は目前であった。
自分の店を持つ望みも叶わなくなり、普通なら絶望して自棄(やけ)になっても不思議ではない状況であるが、彼の心は意外と平静であった。
幼少から多くの死を目撃してきた彼にとって、死は日常である。
あの世で、父母や孤児の仲間たちにまた会える、という思いがあった。自分だけが生き延びていることへの、何とはない後ろめたい思いからようやく解放される、という思いもあった。
五分五分の病気なら、助かりたいと心が揺れ動くこともあるだろうが、不治の病なら、もはや、これまでと覚悟を決めるしかない。それに、懐かしい人、もう一度逢いたい人はこの世よりもあの世に多くいる。
彼は、時に喀血(かっけつ・肺や気管支などの血を口から吐くこと。消化器系からの出血は吐血という)しながら、人里離れた山奥深くに入った。誰にも会いたくなかったし、誰にも迷惑をかけたくなかった。
山菜や木の実などを採(と)りながら、心静かにあの世からの迎えを待つつもりだった。
それが、どうしたことだろう……。
春が過ぎ、夏が過ぎ、秋が過ぎ、厳しい冬が過ぎ……、また春が来ても、彼は死ななかった。
“いつだろう。いつになったら、お迎えが来るのだろう”
何しろ、両親の命を奪った病気である。裕福な両親は、多分、何人もの医者に診てもらったことだろう。高価な薬もいろいろ飲んだことだろう。栄養価の高い食べ物も、金に糸目をつけず取り寄せたことだろう。それでも、命を奪われたのである。 医者にも診てもらわず、薬を飲むわけでもなく、粗食どころか、一日三食食べられない日のほうが多い自分が命を奪われないはずがない。そう信じ込んで、毎日を過ごしていたが、一向に死ぬ気配がない。
かといって、病気が治ったわけではないのは、思い切り息を吸い込んでも、どこか洩(も)れてる感じがするのでわかるし、時折思い出したように襲ってくる喀血の症状でもわかる。
“そのうち、お迎えが来るだろう”
なにしろ、待つしかない身である。
頬は痩(や)せこけ、髪や髭(ひげ)は伸び放題(ほうだい)、衣服は汚れ放題、破れ放題で、とても二十歳(はたち)の青年とは思えない風貌(ふうぼう)であった。
そうして二度目の春が通り過ぎ、三度目の春、四度目の春も過ぎ、五度目の春の足音が聞こえて来た時、さすがに、待つのはもうたくさんだという思いになった。
“お迎えが来ないのなら、こちらから行ってやる”
誰が落としたのか、獣道(けものみち)で以前拾った麻紐(あさひも)を木の枝にかけて輪っかをつくり、そこに首をかけてから、積み重ねて踏み台にしていた石を足で蹴(け)った。支えを失った体は下に落ち、枝にかかった麻紐が彼の首を締め上げる……。その筈(はず)であった……。
しかし、麻紐は相当古いものだったのか、彼の軽い体重を支えきれず、すぐにプチッと切れた。石を蹴ったはずみでバランスが崩れていたのか、うまく着地できずに仰向(あおむ)けに倒れ、踏み台にしていた石で頭をしたたか打ち、意識を失った。目覚めさせたのは、夜半の雨である。
春とはいえ、早春の雨は冷たい。寒さで、体の震えが止まらず、歯もガタガタと鳴りつづける。落下した時に打った後頭部の傷がズキズキと痛む。闇の底で何も見えず、上体は起こしたが、立ち上がる気力はなく、たとえ気力を振り絞(しぼ)って立ち上がったところで、漆黒(しっこく)の闇の中では動きようがない。寒さに身を縮(ちぢ)こまらせて冷たい雨に打たれながら、激しく降る雨の音と風が揺らす枝葉の音を聞いていると、さすがに惨(みじ)めな気分になって、背中に背負った苛酷(かこく)な運命を呪(のろ)いたくなる。
早くに死んだ孤児の仲間たちに対して、後ろめたい気分を抱(いだ)いていたが、本当は彼らのほうが自分より幸せなのではないか、そんな思いさえしてくる。
“絶対の孤独”
そんな言葉が、なぜか頭に浮かび、頭から離れない。
光を求めて、時折、目を開けるが、永遠の暗闇世界に迷い込んだかのように、夜明けの兆(きざ)しは一向(いっこう)に見えない。
そのうち、睡魔が彼を襲いだした。
いつか誰かから、雪山で眠ると死ぬという話を聞いたことがあった。
その時は、冗談だろう、自分はからかわれているのだろうと、その話を右から左に受け流したことがある。温かい布団にもぐりこんで、眠くなるというのは分かるが、雪山で眠くなるというのは分からない、と思っていた。
だが、実際に、その時がやってきた。
寒さで、とても眠れないはずなのに、眠くなる。“つらいだろう。眠れば、楽になるよ”と、甘美な誘惑の声が聞こえてくる。
その一方で、“眠ると死ぬよ”という誰かの声が聞こえてくる。
元はと言えば、首吊り自殺をし損(そこ)ねて、地上に落ちてきた身である。
さらに言えば、あの世からのお迎えを何年も待って、待ちくたびれた身である。
眠りの誘惑に抗(あらが)って、目覚めていなければならない理由はどこにもなかった。
“ようやくか……。ようやくお迎えが来たのか……”
彼はかすかに笑みさえ浮かべて、眠りの誘惑に身を委(ゆだ)ねた。
次に目覚めた時には、両親や孤児の仲間たちが迎えに来てくれる筈(はず)であった。だが、雨音一つしない、光に満ちたさわやかな目覚めの朝に、両親や仲間たちの姿はなかった。
訝(いぶか)りながら、周囲を見回して、そこがあの世ではないのに気づくのに、そんなに時間はかからなかった。
落胆(らくたん)は激しかった。
“雪山で眠ると死ぬ。……あれは、一体、何だったのか。子供の時のように、またも、誰かの助けがあったのだろうか”
彼はもう一度、今度は人の姿を求めて、周囲を見回した。だが、当然のように、人の気配はない。
しかし、何かの気配は感じる。
眩(まぶ)しい朝日に目を細めつつ、進むべき道を教えてほしい、と、天を仰いだ。だが、天の声は聞こえない。小鳥の囀(さえず)る声が聞こえるばかりである。
死に近く、死ぬことができず、商人として人並みに生きようにも、病気が邪魔をしてしまう。応対の最中で、喀血でもしたら、客が逃げ出してしまうことだろう。
この先、どうしていいのか分からず、途方に暮れた。
ただ一つ、分かったことがある。
死ぬために山に入ったのだが、何をしても死ねないと分かった今、山を下りるしかない、ということである。
だが、その先が分からない。
ただ、テレビもラジオもない時代に、話し相手もなく山に篭(こも)っていれば、否(いや)も応もなく思索にふける時間は無限にあった。この世界の道理について、人の生き死にについて、思索すればするほど、迷い道に入っていくようだった。
“仏教ならば、この迷い道から救い出してくれるだろうか”
その時、そんな風に思ったことがあった。もし、生きて山を下りることがあれば、お寺を訪ねてみたいと……。
そして、実際に山を下りてみると、村人たちは冷たい態度で、汚い、病気持ちらしい、見知らぬ男を受け入れてくれるのは、寺しかなかった。
彼は、自分が労咳であることを正直に打ち明けたが、住職たちは動じなかった。病気がうつるなら、それもよかろう。何かの因縁(いんねん)であろう、という態度であった。
彼が生きてきた商売の世界では、基準は、儲(もう)かるか、儲からないかのただ一点だった。儲かりそうもないものには、指先ひとつ動かそうとはしない。だから、病気を理由に店を追い出されたのも、当然だ、と思っていた。
それなのに、住職たちは何の得にもならないのに、それどころか、病気をうつされるかもしれないのに、彼を受け入れる、という。
もしも、病気にならなければ、一生縁のない世界であった。
もしも、病気にならなければ、一銭でも多くの利益を求めて、時に嘘をついたりもしながら、今でもあくせくと働いていたことだろう。
病気になったからこそ、初めて知った世界。それこそが、これから自分の生きる道かもしれない、と彼は思った。
それから彼は、方々の寺で修行(しゅぎょう)をして、長い年月の間に仏法の道理も究(きわ)め、自分の病気ばかりか、他人の病気も治せるまでになったのである。
樟入道の身の上話を聞いた人々は、一様に感心した。
「へえー、おまはんは、いや、あなた様はそない偉いお方でおましたんか」
「お気の毒に……。さぞや、おつらいことでおましたやろな。けど、ようご辛抱(しんぼう)なされましたな。ほんにお偉いお方だ」
「樟入道様、早速(さっそく)じゃすが、わしとこの息子、浜一(はまいち)を治してもらえまへんやろか。あいつも、入道様が御苦労なされた労咳でんのや。ええ年やのに、仕事もできんとからに寝たきりでんのや」
と、縋(すが)りつくように頼みこむ、五十年配の赤銅色(しゃくどういろ)の男がいた。
顔色が示すように、漁師をしている浜吉である。漁で鍛えた、逞(たくま)しい両腕を地面につけて、土下座(どげざ)して、必死の表情で、今にも涙を流さんばかりである。
心を打たれた樟入道は早速(さっそく)、浜吉の家に向かった。
そして、身を清めてから、病人の枕元に座り、その口に接するほど顔を近づけ、何やら難しげな呪文(じゅもん)を唱(とな)えはじめた。
病人本人だけでなく、村人たちのほとんどが半信半疑であったが、不思議なことに、浜一は日を追うごとに回復に向かい、やがては全快して、父親と同じ船で沖へ出て働けるまでになった。
村人たちの間で、このことが話題にならない日はない。
村人たちは一様に、そんなに偉いお方が自分たちの身近にいることに不思議な思いをし、そんなに偉いお方を普通の住居(すまい)ではなく、楠の空洞に住まわせていることに居心地(いごこち)の悪い、恥ずかしい思いをしていた。
「この際、樟入道様にお寺を建立(こんりゅう)してあげたら、どんなもんやろ」
「そうしたら、ずっと、ここにいてくれるやろうし」
と、村人たちは集まって相談し、その支度(したく)にとりかかった。
そして、喜ばれると決め込んで、このことを樟入道に伝えたのであったが、
「いえいえ、わたしにはお寺など不要でおます。皆さん方のご厚意(こうい)は有難いが、樟入道という名前をつけたからには、いつまでも、あの楠を住処(すみか)にしたいのでおます」
と言って、村人たちの申し入れを固(かた)く辞退したのであった。
同じなら、できるだけ立派な寺を造りたい、と意気込んでいた村人たちも、本人の辞退にあっては仕方がない、すごすごと引き下がる他(ほか)はなかった。
当時は文徳(もんとく)天皇(827~858)(在位850~858)の代であった。
かっこ内に示したように、僅(わず)か三十二年の生涯で、天皇在位期間も九年に過ぎない。この背景には、時の権力者で、また、伯父であり義父でもある藤原良房との長年にわたる確執(かくしつ)があったと言われている。
良房には血を分けた男の子がなく、一人娘明子(あきらけいこ)がいるだけであった。ただでさえ可愛い一人娘と文徳天皇の間に生まれた子(後の清和天皇) 《ちなみに、この清和天皇の子孫に源頼朝や義経、さらには武田信玄や足利尊氏などがおり、清和源氏として有名である》良房にとっては可愛い孫を、次の天皇にすることは、自分の権勢を守るためにも必要なことだった。
一方、文徳天皇は藤原家より身分の低い家の出である紀静子(きのしずこ)との間に第一皇子(おうじ)惟喬親王(これたかしんのう)をもうけていた。年齢から言っても、こちらの皇子が皇太子になるのが自然だったのだが、良房がそれを許さなかった。
惟喬親王は六歳にしては利発で、集中力があり、次の天皇としての器量を文徳天皇は感じていて、皇太子にしたかった。
一方、良房の推す惟仁親王(これひとしんのう)はまだ一歳にもならず、天皇としての器量は測(はか)れない。
皇位継承権への横槍(よこやり)を許せば、他の政治局面でも、横槍が入ることは目に見えている。誰を皇太子にするかは、すぐには結論が出なかった。
そんな折、文徳天皇は急に体調を崩したのである。
二十三歳の若さで、病弱であったわけでもない。誰かに毒を盛られたのかもしれない。
原因は何であれ、天皇のお体は日ごとに衰弱していき、流動食ものどを通らないほどである。当時の名医が何人も枕元に集まったが、暗い顔で目を伏せ、あきらめたかのように首を左右に振るばかりである。
“即位なさったばかりで、お隠れになってしまうのか”
そんな不穏(ふおん)な噂が京の街中を駆け巡る頃、全然別の噂が天皇の周辺に舞い込んだ。
“京よりずっと南の方の海辺の村に、樟入道とかいう、いかなる病でも治すことのできる不思議な僧がいるらしい”
普通なら、眉唾(まゆつば)ものの噂として、右から左に聞き流されるところであったが、場合が場合であった。
すでに名医たちは匙(さじ)を投げているし、天皇のお体の衰弱は目を覆(おお)わんばかりで、今日明日の命も危(あや)ぶまれるほどである。
この際、溺(おぼ)れる者は藁(わら)をも掴(つか)む、という心境であったし、側近としては、何もしない時間がつらい、というのもあっただろう。
樟入道のもとへ、早速、輿(こし)が差し向けられたのである。
輿といっても、馴染(なじ)みがなくてイメージが湧かない人もいるだろうが、祭りの神輿(みこし)の中央に人が座っているのをイメージすれば、それほど外れてはいない。もともと神輿の源(みなもと)を辿(たど)れば、輿に行き着くのである。
使者から事情を聞かされた樟入道は、最初は辞退をした。
日本国の運命を左右しかねないような、重大な任務は自分には荷が重い、と。
だが、使者たちも、簡単には引き下がらない。そのうち、騒ぎを聞きつけた村長(むらおさ)の長五郎や村人たちも集まってきた。格別大きな声で押し問答をしていたわけではないが、とにかく、蒔絵(まきえ)を施(ほどこ)した立派な輿が田舎村では人目を引くのである。何しろ、輿が村に入ってきた時から、村人たちは農作業の手を止めて見送ったほどであるから。
互いのやり取りを聞いていた村長の長五郎は、一歩前に出て、やおら口を開いた。
「樟入道様、荷が重いというのは、ようわかりま。天子様は、天上にいらっしゃるもの。わしらの生活には関係ないお方、と日頃思ってま。そんなお方の生死に関わるなんて、確かに荷が重い話や。そやけど、こんな田舎村まで来てくれはった御使者を手ぶらで帰したら、後々(のちのち)どうなりまっしゃろ。村全体が、天子様の御病気に冷淡であったと言われかねまへん」
長五郎の意見に、村人たちも同調した。
確かに、天皇からの誘いを拒否するのは、失礼な話である。後で、どんな報復が待っているかもしれない。
日頃、村人たちに世話になっている樟入道は、村人たちの迷惑になることは避けたかった。それで、気が進まなかったが、京に行くことにした。
心のうちで、自分の術は貧しい人や恵まれない人のためのものだ、という思いがあった。
その一方で、孤児として地べたを這(は)って生きてきて、労咳のために山中で孤独で無為(むい)な数年を送ってきた男が、つまりは、世の中の底(そこ)の底のほうでかろうじて息をしていた男が、日本で一番偉いお方に呼ばれ、その病気を治すよう依頼される……。昔、想像さえしなかった事態が自分の身に起こっている。
それを思うと、不思議な感慨があった。
誇らしい気分はないが、遥(はる)かに長い人生の旅をしてきたな、と自分にご苦労さんと言いたくなる。
平安京内裏(だいり・皇居)は、現在の京都御所の位置にあったと、知らない人はなんとなく思い込んでいるかもしれないが、実際には、二キロほど西の千本丸太町周辺にあった。度重なる火災のために仮住まいしていた場所が、南北朝時代あたりに正式に御所になったらしい。
それはともかく、谷川村から平安京内裏までは約百キロある。普通の歩く速度は、時速約四キロであるが、緊急の場合であるので、時速五キロで休みなく輿を運んだとしても、二十時間かかる計算になる。
現代の乗り心地のいい車や電車であっても、二十時間乗り続ければ相当に疲れる。まして、輿は人間が支えているので、どうしても上下左右に揺れる。普通は、揺れないように、ゆっくりと進むのだろうが、この場合は、一刻(いっこく)を争う。さぞかし荒海の小舟のように揺れたことであろう。老齢の樟入道にとっては、眠ることも許されず、つらい行程であったろう。
昼過ぎに谷川村を出た輿が和泉の国を出る前に、夕陽が西に落ちていった。電気のない時代、日没後(にちぼつご)は、とくに新月の頃には信じられないほど暗くなる。普通なら、一眠りして夜明けを待つところであるが、一行には、先を急がねばならない理由があった。
たぶん、熊野古道紀伊路(きいじ)《京の貴族たちが、和歌山の熊野詣(くまのもうで)をするにあたり通った道。別に、東回りの伊勢路コースもあった。淀川を舟で下(くだ)り、大阪の天満橋(てんまばし)から陸路となるので、そこが紀伊路コースの基点となる》を通ったのであろう。
暗闇の中、わずかな星の明かりを頼りに北を目指していた一行はやはり、北極星を目安にしていたか。
天満橋あたりでは、すでに、朝陽が顔を覗(のぞ)かせていたか。
しかし、川を上(のぼ)るので、天満橋から舟に乗ることはできない。淀川沿いをひたすら歩いたのだろう。
夜の間は、時間が止まったように感じられていたのに、朝になると、太陽が刻一刻と高くなっていき、いやでも時間の流れを思い知らされる。もしも、京に着くまでに、文徳天皇がお亡くなりになれば、一行の苦労のすべてが、何の意味もなくなってしまう。なんとしても、ご存命中に京に着きたいと、焦ればあせるほど、輿は上下左右に揺れ動いたことだろう。
昼前に平安京に着いた頃には、樟入道はへとへとに疲れきり、船酔い気分で真っ直ぐに立てないほどであった。その両脇を待ち構えていた貴族たちに左右から支えられ、内裏まで引きずるように連れて来られた。
もしも、天皇がお亡くなりになっていれば、何しに来たと、手のひらを返したように追い返されていたはずであるから、内裏まで連れて来られたのはご存命だからだろう。そして、貴族たちの慌(あわ)てようから、ご病状はさらに悪くなっているのだろう。
そんなことを、樟入道は疲れの極限にありながら、冷静に推測していた。
さすがの樟入道も、今にも死にそうな人間を助けた経験はなかった。
事態は、予想していたより、さらに深刻である。
自信はなかったが、やるしかない。
樟入道は、息絶(た)え絶(だ)えの文徳天皇の枕元に座り、三日三晩休むことなく祈り続けた。しかし、事態は好転せず、天皇は意識不明の状態のままである。
側近の貴族たちも、内心、諦(あきら)めの心境になりつつあった。
“比叡山(ひえいざん・天台宗)にも高野山(こうやさん・真言宗)にも高僧はいくらもいるのに、この汚い坊主を呼んだのは誰か”
“この坊主の無駄な祈りは、いつになったら終わるのか”
自分たちが呼んだことも忘れて、貴族たちは樟入道の存在を邪魔者に感じ始めていた。かといって、飲まず食わずで、必死な形相(ぎょうそう)で祈り続ける樟入道を目の前にすると、その迫力は圧倒的で、もういいと止めることは誰にもできなかった。
いくら超能力の備わった僧だとしても、三日間一睡もせず、飲まず食わずでは、老体が持つわけがない。今日明日にも倒れてしまうだろう。無理に止めなくても、それまで待とうということになった。
四日目の朝、白々(しらじら)と夜明けの気配が迫りくる頃、事態が動いた。ついに、樟入道が倒れたのか……。
いや……、文徳天皇の瞼(まぶた)が不意に開いたのである。
それは、感動的な瞬間であった。
明け方の、光がまだ十分に部屋に差し込まない時間で、変化のない状態に慣れていたことや寝具に隠れて見づらかったこともあり、側近の貴族たちの誰一人、その変化に気づかなかった。
最初に気づいたのは、もちろん、樟入道である。
彼はウッと奇声を発して、固まってしまった。
それを見て、貴族たちは心身の限界がついに訪れたか、と思った。硬直した体が、やがて、前後左右かに倒れるだろう、と……。
だが、樟入道は……、倒れない。もしも、文徳天皇の側に倒れるようなことがあれば、止めなければと身構えていた貴族たちも、あの奇声は何だったのかと、怪訝(けげん)な面持(おもも)ちで樟入道を見つめた。
薄暗い部屋の、時間が止まったような静寂(せいじゃく)の中、樟入道は意識を失うどころか、カッと目を見開いて一点を凝視(ぎょうし)している。
その様子から、貴族たちは文徳天皇の身に何か変化が起きたらしいことを直感した。半ば以上、諦めていたから、悪い予感しかなかった。
“とうとう、来るべき時が来てしまったか……”
文徳天皇のお亡くなりになった姿など、見たくはなかった。いっそ両目に刃物を突き刺して、見えなくなってしまえばいい。幼少から身近にお仕(つか)えしてきた年配の貴族の中には、それほどの失意と哀しみに打ちのめされる者もいた。
しかし、現実は受け止めざるを得ない。
早くも湧きあがった涙で曇った目を、おそるおそる、文徳天皇の方へ向けると、何と、お亡くなりどころか、しっかりと目を開けていらっしゃる。
貴族たちの驚くまいことか。
ある者は何度も目をこすり、ある者はのけぞり、ある者は樟入道のように固まってしまった。
胸が張り裂けるような哀しみに突き落とされた後、少し遅れて、天にも昇る歓びがやってきた。
死を予期していただけに、その裏切りは身震いするほど感動的で、涙はいつしか、うれし涙に変っていて、声を出して泣き出す者もいた。
その時点では、意識を回復されたに過ぎなかったが、二十三歳の若さのせいもあり、一旦峠を越えると、その後の経過は順調で、一週間も経(た)たないうちに健康なお体になられた。
ありえない奇跡が、樟入道のお蔭で起きたのである。
野心のある人間なら、この機会に宮中に入り込むことも考えただろうが、彼にはそんな野心はなかった。それならば、何か褒美(ほうび)を、という申し出も、彼は断った。
“わしの力や、おまへん。帝(みかど)のお体に回復力があった、ということでっしゃろ”
と、さりげなく言うのである。
出世のために自分を実際以上に大きく見せることに執着(しゅうちゃく)していた貴族たちは、その謙虚な態度に、褒美をもらっておけばいいのに何と馬鹿な男だろう、と内心思いつつ、さすが仏道の人と感心して見せた。
貴族の館(やかた)で数日間静養した後、樟入道は、帰りの輿を断り、天満橋までの舟には乗せてもらうものの、そこからは徒歩で、途中の野宿も覚悟して、谷川村まで帰ることになった。
現代なら、マスコミに大々的に取り上げられて、帰り道は揉(も)みくちゃになったことだろうが、もちろん、そんなことはない。
大仕事をやり遂げたというのに、樟入道に注目する人は誰もいなかった。それどころか、京で帝にお会いした、と言うだけでも、このウソツキ坊主がっ、と罵声(ばせい)を浴(あ)びせられることだろう。
しかし、大仕事をやり遂げた後の充足感が自分だけの秘密であることが、樟入道には何故(なぜ)か心地(ここち)よかった。
あの時は、天皇が意識を回復されるまで、祈り続けるつもりだった。もしも、意識を回復されなければ、どうなっていただろう。不眠不休の祈りが四日目に入り、すでに限界状態になっていた。あのまま続けていれば……、たぶん自分が先にあの世に旅立っていたことだろう。
そう思うと、目の前に広がる、何と言うことはない田園風景が、人々の働く姿が、この上なく美しく、ありがたいものに見えてくる。
そして、これが流浪(るろう)の旅の途中ではなく、あの楠の我が家を目指す帰り道であることも、彼には心地よかった。
しかし、それほど愛していた楠、終(つい)の棲家(すみか)になるだろうと予感していた楠を、それから二年も経たずに、樟入道は去ることになる。その原因が、命がけの祈りの報酬を何一つ求めなかった樟入道への、文徳天皇のご配慮だったのは皮肉というしかない。
入唐八家(にっとうはっけ)《最澄(さいちょう)(767~822)、空海(774~835)など平安時代初期に唐に渡り、密教を学んだ八人の僧侶》の一人、円仁(えんにん)(794~864)が八百五十二年、この谷川村に興善寺を創建した。
これは、文徳天皇の勅願(ちょくがん)《天皇の命令(勅命)による祈願》によるものである。そういう形で、樟入道に褒美が下されたのである。村人たちにとっても、樟入道がこの寺の住職になるのは、ごく自然なことに思われた。
けれど、樟入道には、いつか必ず実行しなければ、と心に固く誓っていることがあった。それはあの世に逝(い)って、孤児の仲間たちに再会した時に、あんたたちより長生きしたけど、いいことは何もなかったよ。楽しいことはなかったよ。早く死んで、よかったよ、と言うことだった。
例えば、急病で修学旅行に行けなかった友達に、修学旅行は最高に楽しかったよ、と言うだろうか。心あるなら、嘘でも、楽しくなかった。行かなくて、正解だったよ、と言わないだろうか。
生きている人間なら、そんな嘘も通用するかもしれないが、あの世から一部始終を見られているのに、嘘は通用しない。勅願寺の住職という恵まれた位置にいながら、いいことは何もなかったなんて言えない。
いいことは何もなかったと言うためには、人並み以上の生活をしてはいけない。
樟入道は、そう、心に決めていた。
しかし、仏門に入った者として恥ずべきことではあるが、あの世は本当にあるのだろうか。孤児たちに本当に再会できるのだろうか、という疑念が頭をもたげることもあった。
とくに、貴族の館での数日間の静養で、寝心地のいい寝具や美味な料理を、六十数年も生きてきたのに、生まれて初めて経験して、なるほどこういう生活もあったのか、と感心してからはそうだった。
もしも、あの世がないのなら、もしも、孤児たちに再会できないのなら、老い先短い残りの人生を人並みに暮らしたい。そんな思いに心が揺らぐこともあった。
「樟入道様、お引越しはいつかいのう。いつでも手伝いまっさかい」
「阿呆(あほう)か、お前は。引越し荷物なんか、あるわけないやろが」
「そうよ。樟入道様は身軽なんよ。興善寺が出来上がり次第、ひょいと身一つで引越しされるわけや」
村人たちも、興善寺の建築が進むにつれ、その寺の住職に樟入道がなるのは既定の事実のように思い始めている。
そんな村人たちの口ぶりや態度も、樟入道の心をさらに揺れ動かした。
人の思いや時の流れが住職になることを求めている。何を抗(あらが)うことがあろうか。
それに、勅願寺の住職を拒否して、目と鼻の先の楠に当てつけのように居続けることはできないだろう。ある意味、文徳天皇のご意向に逆(さか)らう事になるのだから。
では、どうする。愛着のある楠の樹を離れて、また、昔のように流浪の旅に出ることになるのか。
命をなんとか明日につないでいければ、そのうち、幸せな明日に巡り逢えるかもしれない。そんな夢想を抱いたまま、短い、短すぎる人生を終えた孤児たちに、幸せな明日など何処(どこ)にもなかった、と言うために、この年でまた、当ての無い流浪の旅に出なければならないのか。
膝(ひざ)の関節痛のために、歩くこともだんだんと苦痛になっている。膝だけではなく、体全体に老化の翳(かげ)りを感じている。
彼を取り巻くすべての情況が、住職になれ、と告げている。ただ一点、幼くして亡くなった孤児たちへの思いを除いて。
迷っている間にも工事はどんどん進められ、段々と寺の形が現れてくる。完成までには、進退を決めなければならない。
さて、どうしたものかと、樟入道が追い詰められた気分で建築工事中の興善寺を眺めていると、その煩悶(はんもん)を知るはずもない村人たちが、祭りの前日の子供のような浮き立った表情で寄って来る。
「樟入道様、いよいよでんなあ」
「待ち遠しいでっしゃろ」
「わしらも待ち遠しいわ。なにしろ、偉いお方をあんな楠の樹に住ませて、わしらも肩身の狭い思いをしてきたからなあ」
「そうよ。偉いお方は立派な建物に住んでもらわんと、わしらも居心地が悪い」
村人たちの好意が伝わるだけに、なおさら、樟入道は対応に苦しむ。
ただ、微苦笑を浮かべて、竣工(しゅんこう)間近の興善寺を、あるいは辺(あた)りの風景を、これが最後になるかもしれない、と内心思いつつ眺めるのみであった。
その夜にようやく決心し、樟入道は翌日から二日間、村人の家々を檀家回りのように訪ね、口には出さないが、別れの挨拶をして回った。
そして、二日目の夜に、どこへともなく……消えた。
前にも記したように、この時代の夜は本当に暗い。その分、月や星が美しく輝くが、それにしても、勅願寺の住職をあきらめて、老いの身で当ての無い流浪の旅に、人目を避けて夜中に出ようとするのだから、どれほど気持ちが重たかったことだろうか。
そして、それは同時に今まで築いてきた村人たちとの人間関係を喪(うしな)うことでもあった。谷川村でなら、道で倒れれば、すぐさま村人たちが駆け寄ってきてくれたことだろう。しかし、他所(よそ)の土地では、よくある行き倒れとして捨て置かれることだろう。
天皇のご配慮を無視した結果から、樟入道は、まるで、逃亡者のような後ろめたい気分を抱いていたことだろう。そして、夜の間に、谷川村からできるだけ遠ざかろうと、目的地があるかのように、痛みを堪(こら)えて早足で歩いたことだろう。
その後、何処(どこ)へ消えたのか、村人で、樟入道を見た人は一人もいない。それどころか、噂を聞いた人さえ、一人もいない。
ただ、文徳天皇のご逝去(せいきょ)の噂は、平安京から百キロ離れた、この谷川村にも届いてきた。八百五十八年である。樟入道が姿を消してから、約六年後である。
前にも記したように、三十二歳という若さで、天皇在位期間も九年という短さであった。
そして、九歳の若さで清和天皇が即位されたが、幼くて、政治を行えるはずもなく、その祖父にも当たる藤原良房が皇族ではない身分で、初めて事実上の摂政(せっしょう)となり、実質的な政治的権力を握ることになる。十一世紀前半の藤原道長・頼通(よりみち)に代表される藤原一族の摂関政治はここに始まることになるのである。ただ、藤原一族が代々摂政・関白(かんぱく)になるようになるのは、十世紀後半になってからであるが。
もしも、文徳天皇の急死の理由が、病死ではなく、毒殺のような殺人であるとするなら、ミステリーの基本に立って、殺人によって誰が得をしたかを推測すれば、自(おの)ずと犯人に行き着く。
それはともかく、その頃、樟入道は何処でどうしていたのだろうか。
生きていれば、七十五歳前後になる。
まだ、流浪の旅を続けていたのだろうか。
それとも、別の楠の樹を見つけたのだろうか。
もしも、樟入道の耳にもご逝去の噂が届いたとすれば、彼はどんな感慨(かんがい)を抱いたことだろう。
もっと早くに聞いておれば、すぐに平安京に駆けつけたものをと、悔しい思いをしたのだろうか。
それとも、年齢的に、三日三晩祈り続けるような気力や体力は、ひいては他者に影響力を及ぼすような能力は、すでに、喪(うしな)っていただろうか。
あるいは、その頃すでに、文徳天皇より早くに、この世にはいない人になっていたのだろうか。
あの世へ旅立った樟入道は、あれほど、この世での生き方を変えた孤児たちとの再会を、成し遂げることができたのだろうか。
そして、“幸せな明日など、何処にもなかった。苦労ばかりで、何もいいことはなかった。人生は大いなる徒労だった。あんたたちは、早く死んでよかったよ”と、言うことができたのだろうか。
それは誰にも、少なくとも、生きている人間は誰にも分からない。
〘メモ〙 樟入道のほこらは、南海多奈川線終点『多奈川駅』より西方約二キロ。
興善寺も、この近くである。