自然居士
ここは京の都である。豪華な寺院が甍(いらか)を並べている一隅に、いつの頃からか、『雲居寺』というささやかな寺が仲間入りをした。
だが、この寺の住職は僧ではなく、自ら『自然居士(じねんこじ)』と名乗っている俗人である。
ちなみに、居士とは、出家をせずに、在家で仏道修行をする者をさす。
自然居士は、せっかく住職を務めながら、どうして正式の僧にならないのであろうか。
自然居士の言い分はこうである。
「そもそも、僧はお布施をいただいて生活している。いうなれば、お恵みを頂戴しているのであり、体(てい)のいい乞食である。私は、絶対にお布施などいただかない。したがって、出家はしない」
というのが、持論であったらしい。
そして、近所の子供たちに読み書きを教えたりして、細々と生活しているらしかった。
釈迦が亡くなる直前に弟子たちに言った言葉の中に、『少欲知足』がある。文字通り、欲を少なくして、足(た)るを知る、ということである。
自然居士の心境は、まさに、そのとおりであった。
時は、第二回目の蒙古(もうこ)襲来、すなわち弘安四年(千二百八十一)の弘安の役の頃であった。戦い自体は九州地方で行われ、京から遠く離れた戦いとはいえ、もしも、負けるようなことになれば、神国日本が他国の属国となり、野蛮な外国人にどんな仕打ちを受けるか分からない。現実に、女性が手のひらに穴を開けて、つながれるようなことは伝わってきていた。
世の中は騒然として、その乱れに乗じてか、京の町々では人買いの噂で持ちきりになっていた。
それは、主人の長患いなどで生活に困っている家族や、この度の戦争で働き手を失った遺族をだまし、その家の子女をただのような値段で買いあさるのであった。
そして、どこかへ売りさばき、暴利をむさぼっているらしい。
自然居士は常々、家族のために身売りまでしようという孝女の身になって、出来るものなら、救えるものなら救ってやりたい、と思っていた。
自然居士は、宝治元年(千二百四十七)一月十五日、泉州南部の自然田(じねんた)村(現阪南町)の山本三太夫家で生まれた。
どのような身分の家であったのか分からないが、名字があるからには、郷士であったのか。それとも、豪農であったのか。
幼名は、『智生麿(ちしょうまろ)』と言った。
その名に恥じず、幼少の頃から極めて聡明であった。が、その聡明さゆえに、世の中の矛盾にすぐに気づいてしまうのだった。
まず第一に感じたことは、身分により、著しい生活の相違があることだった。
自分は幸(さいわ)い教育も受けられるが、水飲み百姓の子供などに生まれると、読み書きを習いたくても教えてはもらえず、ただ牛馬のように幼い頃から働かされるだけである。
同じ人間に生まれていながら、これはまた、どうしたことであろう。
世の中の不公平を見て見ぬ振りをしながら、裕福な暮らしをしたくない、と考え、ついに身分も財産もなげうって、仏道修行を志して、大和の興福寺を訪ねたのである。
三十才くらいの頃で、自然を尊びたいと、『自然居士』と名乗るようになった。
この寺は、法相宗(ほっそうしゅう)大本山で、かって耳にしたことのない仏法の道理など多くのことを学んだのだったが、自然居士は学べば学ぶほど異和感を感じるようになった。
それは、何故であろうか。
よく言われるように、法相宗など旧仏教は貴族のための仏教であり、庶民の救済など眼中になかった、ということだろうか。
自然居士は、そこで、京へ出て、臨済宗無関普門(大明国師)(南禅寺の開山)に師事し、禅宗を学ぶようになった。
禅宗の教義には、「経文は月をさす指のようなものであり、成仏(幸せ)とは、自分の力に頼る以外にない」というような意味のことが説かれている。
これが、自然居士の気持ちにぴったり合ったらしい。
何年か勉学を積んだ後、自然居士は、庵室に毛の生えたようなこの雲居寺を建てて、仏道修行に励んでいた。
さて、人の弱みに付け込む人買い組織の頭領とは、この京に住まいする丹羽屋六右衛門という男である。
表向きは、回船問屋であるが、商売柄各地から女性をかき集めてくるのである。六右衛門は、これらの女性をあちこちの廓(くるわ)などへ、べらぼうな値段で無理やり売りつけるのであった。
ヤクザだけでなく、役人も手の内にしており、それで、六右衛門一派は公然と悪事を働いているとの事であった。
これらの事実を知るにつけ、自然居士の怒りは心頭に発した。
「何と汚らわしい人でなしもいたものよ。それに、役人までも……。何のための役人なのか。よし、わしが六右衛門にとくと説教して、その心得違いを教えてやらずばなるまい。でないと、六右衛門も地獄へ堕ちようぞ」
と、自然居士が言うと、彼を慕う人々は、そのような無謀な計画を思いとどまらせようと言うのであった。
「お住さんの仰(おお)せももっともですけど……、相手は怖いお人ですえ」
「そないなこと、お止めなしな、お住さん。おお、怖いこと」
「おそらく、無事に帰られへんのと違いまっか」
「どないな目にあわされるかと思ったら、わてら、生きた心地せえへんのどす」
しかし、自然居士の決意は固いらしく、
「私の身を案じてくださるのは、誠にありがたいが、この身は御仏に捧げたものでございます。たとえ、叶わぬまでも、悪を正さねば、というのが私の心情でございます。困窮している方々を救うと同時に、この身を捨ててでも、悪人どもの心がけを正してみせるのも、仏の弟子としての務めでございます」
「これを称して、『不惜身命(ふしゃくしんみょう)』と申しますのじゃ。さによって、お止めくださいますな」
と言って、自然居士はただ一人で六右衛門の屋敷へ出かけていった。
六右衛門の屋敷に近づくと、なるほど、目つきのよくない、一見して、ヤクザ者とわかる男どもがうろうろしている。
人相のよくないこれらの人を見るにつけ、京の人々が恐れを抱いていることも納得できる自然居士であった。
しかし、自然居士はそんな用心棒など眼中にない模様で、
「御苦労はんどすな。わし、六さんの連れどす。六さん、いてはるかいな」
と言って、堂々と門を入っていくのであった。
用心棒たちは、うちの親分にあない抹香くさい知り合いがおったかいな、と思いつつも、自然居士の気迫に押されたのか、つい道を開けてしまうのだった。
自然居士の外見こそは、穏やかそうであるが、その内面は悲壮なものがあった。
法のため、人のため、いつなりとわが命を投げ打とうというのである。
一命を賭けてかかるほど強いものはない、というのが自然居士の信念であった。
つまり、命がけで、大悪党六右衛門を諭(さと)そうというのである。
六右衛門も、人間に違いなかろう。それなら、誠意の通じぬはずがない。また、生まれながらの悪人もあろうはずがない。したがって、六右衛門があのような悪人になったのも、何か深いわけがあったに違いない。『罪を憎んで、人を憎まず』ということか。
六右衛門は自然居士を煙たがって、追い出そうとしたが、自然居士は頑として動こうとしなかった。動かしたければ、死体にしてから動かせばいいというのである。
悪人といえども、現代よりも、仏教の影響力の強い時代に生きていた人間である。まさか、僧を殺すわけにはいかなかった。放(ほう)っとけば、いずれ帰るだろうと、水一杯出さずにおいたが、自然居士は居つづけるのである。
そして、六右衛門の顔を見ると、聞いていようが、聞いていなかろうが、仏法の道理を独り言のように話す。
それが三日三晩続いて、自然居士の顔から生気が失われた頃、さすがの六右衛門も、何か食べ物を出すように言いつけた。その結果、自然居士が更に居つづけるだろう事は見えていたが、僧を殺すわけにはいかなかったのである。
自然居士が来て十日が過ぎた頃、六右衛門はついに根負けをした。そして、自分の生い立ちなどをポツリポツリと話し始めた。
それによると、六右衛門の祖父は宮廷に使える武士であったが、かの承久(じょうきゅう)の乱(千二百二十一)の折り、悲惨な最期を遂げた。
その妻(祖母)はまだ幼い子(六右衛門の父)を連れて命からがら逃げ回ったが、どこへ行っても、冷たくあしらわれるのであった。
そんな中であったが、父はようやく成人し、細々ながら商売を始めた。が、ある時、だまされて無一文になってしまうのである。
そのことが余程のショックだったのか、両親は幼い六右衛門を残して、相次いで他界してしまうのである。
孤児となった六右衛門は、食うや食わずの生活を送りながら、なんとか生き延びていく。
十五を過ぎた頃、頭の機転が利くのを買われて、ある回船問屋に拾われるが、つらかった子供時代の思い出が消え去ることはなかった。
金のためなら何でもするし、同時に、自分が味わった苦汁を他人にも味わわせたい、と悪事に手を染めるのも躊躇(ちゅうちょ)しなかった。
やがて、六右衛門は独立して回船問屋を始めるが、それは表向きで、あくどい金儲けをすると同時に、人々が嘆き苦しむのを見て楽しんでいるのであった。
子供時代の不幸を引きずって、人非人に成り下がった六右衛門を哀れんで、自然居士は温かく諭すのであった。
それでも、長年の悪の錆(さ)びは、そう簡単に取れないふうに思われたが、なんと六右衛門はは改心してしまうのである。
「わし、間違うてました。おなご(女)はんだけやなく、その親御はんもどない悲しんではるか。……自分がつらい思いしたからいうて、他人さんにまで苦労を押し付けるのは筋違いどすわな。あんさんのお話、聞いてて、ようわかりました。こないなことしてたら、地獄行きどす。ただいま限り、心を入れ替えます」
これも、『不惜身命』の効果であろうか。
その後、六右衛門は真人間になった、とのことである。
自然居士の活躍したところは、京の都であり、各地を放浪した後、美濃の美江寺に滞在し、千躰仏を彫ったりした後、この地で没したとされている。泉州地方には直接関係はないが、生誕地が現阪南町自然田なので取り上げた。
また、自然居士は観阿弥(かんあみ)の能の主人公としても活躍している。現代ではあまり知る人もない自然居士だが、
当時は結構、有名な存在だったのかもしれない。